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そこは世界にただひとつの完結した場所だった。どこまでも孤立しながら、孤独に染まることのない場所だった。
「1Q84」の世界に、もし愛があるなら、それは完璧な愛かもしれない――。刊行以来、日本で、世界で、空前の話題を呼んでやまない長編小説。
出版社:新潮社
期待値が大きかったからかもしれないが、『1Q84』のBOOK 3は1や2ほど、楽しんで読むことができなかった。
もちろん文章は上手いし、細かいエピソードの描き方はさすがに巧みだし、読み手の興味を引くように物語を牽引していく力は目を見張るものがある。
そこらは村上春樹だけあり、いまさら文句のつけようもない。
しかしBOOK 1や2に見られたような緊張感が、本作にはいささか欠けていたように思える。
そのため間延びしているように見えるのだ。
それは多分青豆や天吾だけでなく、牛河のパートを挿入したことが大きいのかもしれない。
確かに牛河のパートを入れることで、青豆や天吾に危機が迫っているらしいという雰囲気が生まれるし、実際楽しんで読める。
だけど、第31章のタイトルが「天吾と青豆 サヤの中に収まる豆のように」となっている時点で、細かな事情はともかく、青豆と天吾がうまく出会えるんだろうな、ということはわかってしまうのだ。
それに一度描かれた情景を別の視点から描き直しているにすぎない部分もあり、どうしても冗長という印象を受ける。
BOOK1から通しで読んだ身としては、BOOK3は竜頭蛇尾そのものである。何かもったいない。
もちろん牛河のパートを挿入したことに、大きな意味があることは理解できる。
勝手な推測だが、春樹は牛河を通して、「まずいときに、まずい場所にいた」ために、理不尽な状況に追い込まれる人間を書きたかったのではないかと思う。
そしてそれは、青豆と天吾の子どもでもある「小さなものを護り抜かなくてはならない」という決意と、呼応し合っているようにも思うのだ。
そのため牛河の25章をあれだけショッキングなものにしたのかもしれない。
その章に来るまでに、牛河のいろいろ考えや行動に触れてきたせいか、僕は牛河のことを結構おもしろいやつだな、と思いかけていた。
それだけにその章の衝撃は大きかった。非常にいやな気分になる。
だがそのような理不尽な状況を作者は描く必要があったのかもしれない。
でもそれはある意味、理不尽すぎるような気もしなくはない。
正直25章の後、青豆と天吾が出会ったシーンを読むと、この二人のために、いくつかの犠牲が払われたんだな、と思ってしまい、すなおに楽しめず、収まりの悪い気分を抱いてしまう。
愛は美しいし、守らなければいけない存在があるのは美しい。
でもその陰にはひょっとしたらいくつかの犠牲があるのかもしれない。少し暗いことを考えてしまう。
さて、この『1Q84』だが、このBOOK3で完結ではなく、恐らく続きがあるような気がする。
実際回収されていない伏線はあるし、帯や宣伝にもこれで完結という言葉は記されていない。
本当に続きがあるのか、あるとしたら、『1Q84』はどのような着地を決めるか。それはまったくわからない。
ただ、BOOK3を読み終えた現段階だと、『1Q84』は春樹の長編の中で、2番目か3番目にダメな作品という印象を受ける。
そんな中途半端な印象を覆してくれるのか、それともやっぱり竜頭蛇尾で終わってしまうのか。
BOOK4が出るものと期待して、なんだかんだ期待して待ちたい。
そしてBOOK4が出たときにでも(出るとすれば)、総合的な『1Q84』の感想を書こうと思う。
評価:★★★(満点は★★★★★)
『1Q84 BOOK1,2』の感想
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『アフターダーク』
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